特集第二弾のテーマは「教育の知をオープンにする」です。そこで今回は、NPO法人FTEXTをフィーチャーします。FTEXTは、独自に作成した教科書をクリエティブ・コモンズ・ライセンスで公開することをはじめとして、情報社会における新しい「教える – 学ぶ」関係の構築に取り組んでいます。今回は代表の吉江弘一さんと副理事長の鈴木健さんにお話を伺いました。
収録日時:2005/08/09 FTEXT事務所(渋谷)
インタビュアー:濱野智史・生貝直人
写真撮影:濱野智史
編集:濱野智史・生貝直人
■FTEXTの生い立ちと理念
生貝直人(以下、生貝):
今日は、FTEXT理事長の吉江弘一さんと副理事長の鈴木健さんにお話を伺います。よろしくお願いします。
まず、FTEXTにおける「教科書をオープンにする」という試みは、どういった経緯で始められたのでしょうか。
吉江弘一(以下、吉江):
塾の講師として教材作りを始めたのがきっかけでした。
せっかく作るのだからいいものを作りたいと考えたのですが、当時はなにせ始めた塾が小さかったものですから、参考になるものが少ない。そこで、いろいろな先生に会っては、教え方や教材についてのヒアリングをしたり、自分の教え子から意見をもらったりしてきました。このような活動のなかで、開かれた教材づくり、つまりみんなで知を共有するかたちにしたいと思ったのです。自分はいつもまわりから色々なものを受け取っているわけですから、受け取ったものを返すというイメージはとても自然だったんです。最近では、ネット上での情報交換も活発で、たとえば「数学のいずみ」というウェブサイトがありますが、自分もそこからかなりの情報をもらっています。そして自分は、数学の教科書をTeXで組んでいたので、まずはこれを公開することから始めようと思ったわけです。
吉江弘一
生貝:
具体的にはいつごろ開始されたのでしょうか。
鈴木健(以下、鈴木):
やっぱり、クヌース教授がTeXの開発に着手しはじめたときじゃないの?(笑)
吉江:
そう、さかのぼればね(笑)。いや、それは冗談で、わたしがTeXに出会ったときからではないでしょうか。昔から本が好きで、あんなにきれいに活字を打ち出すのはどうやるのかなと不思議に思っていたものでした。そして私の学生時代、ワープロこそ身近にはなっていましたが、一般に出回っている出版物の品質には到底およぶものではなかったんです。ところがTeXに出会って、その打ち出しの美しさに衝撃を受けました。あの、あこがれの世界が一瞬にして手に入ったわけです。しかも無料で。これは何かやらざるを得ないでしょう(笑)。敬意の念をこめてFTEXTの中3文字にはTeXのロゴを使わせてもらっています。
その後、インターネットで無料の教科書を公開しようという現在の形で組織化し始めたのは4、5年前でしょうか。特定非営利活動法人(NPO)として認められたのは今年の1月です。準備は前からしていたのですが、けっこう時間がかかりました。
メンバーについては、今はコアになって動いているのは大体7、8名で、予備校講師や高校の先生、大学生などが参加しています。普段はWikiやメーリングリストなどで意思疎通をはかりつつ、毎週のミーティングと年2回の合宿を実施して活動しています。
生貝:
現在FTEXTでは数学の教科書を公開していますが、吉江さんは学生時代、数学専攻だったのでしょうか?
吉江:
いえ、特に数学を専攻していたというわけではありませんでした。学生時代は電気工学を専攻していて、卒論は天文学で修めたので、その中で数学に触れる機会があったという程度なんです。
コンピューターに触れたあと、教育や臨床心理、社会学の方面に興味をシフトしました。というのも、その当時の工学面での動向を見ていても、少し「遅い」という印象をもってしまったのです。だったら、直接人間の知性を扱うことができる教育に関心を持とうと思ったのです。その流れで教育業の世界に足を踏み入れ、そこから数学に取り組むようになりました。
ですから数学の教科書を作ろうと思ったのは、大学を卒業して予備校教師として教え始めるようになってからですね。FTEXTの活動も数学に限定するつもりは全くなく、今後は料理や音楽、園芸の教科書などみんなで作っていけるよう、魅力的な提案をしていきたいとおもっています。
■カリキュラムのオープン化
生貝:
知のオープン化といえば、いま話題のOpenCourseWare(OCW)でも、数学・物理と高度な知識・問題が多く公開されています。FTEXTの活動は、インターネットによる独習だけで誰でもそのレベルにたどり着くための手がかりということになりますね。
ところで吉江さんは、現在の初等・中等教育で行われている教育に対してどのような点に不満がある、といいますか、どのような問題意識を持ってFTEXTの活動に取り組んでいるのでしょうか。
吉江:
まず私は、FTEXTの活動にしても、「カリキュラムをつくる」という一点に集中して、いろいろなことを考えていくようにしています。
現在、小・中・高の教育カリキュラムというのは文部科学省の組織する審議会等で決めているわけですが、会議室の奥で決められているわけです。誰が何を決めているのかが見えにくい。
また一方で、現場の先生や民間からのカリキュラムに対する批判もけっこうあるのですが、なかなかその声が届かない。いや、みんな本気で届けようとしていない。
そこで私達は、批判するのであれば自分達で具体的にモノを作ってしまおうと思ったわけです。教育に関する議論というのは、とにかく抽象的、心象的になりがちで、水掛論に終わることが多い。だから私達はあえて、射程を狭めてカリキュラムという土台で議論していこうと考えています。
FTEXTでは利用者からのフィードバックを教科書に反映させるということで、オープンなカリキュラムづくりを考えています。たとえば、現在の検定教科書でもコンピュータの普及に従って、関連のある「場合の数」が早い学年から教えられるようになっています(昔は高3、今は高1)。そこでFTEXTでは、大学の先生方はもちろん、社会で数学が応用される現場にいる専門家の意見を積極的に取り入れつつ、時代が要請するカリキュラムを作って提案していきたいと考えています。
生貝:
たとえばインターネットにはさまざまな情報や学習素材が公開されていますが、中学生や高校生がそれを有効に利用できるところまで、自らたどり着くための「知の階段」となれれば、ということですね。
濱野:
そこでカリキュラムというと大抵は「学習指導要領」になるわけですが、結局予備校などでは、受験対策によってまた別のカリキュラムが立てられていますよね。大学ごとに問題傾向やレベルが違うので、結局それに沿った学習プランを立てているのが現状だと思います。
そこで興味深いのは、FTEXTのサイトで公開されている問題データベース「問答無用」です。これはFTEXTの教科書に掲載されている問題を、たとえば「数Iの三角比の問題だけを見たい」というように抜き出すことができるというものですね。こうしたツールによって、独自のカリキュラムをつくることができるわけです。
FTEXTの特徴は、教科書をクリエイティブ・コモンズで公開しているということだけでなく、こうした技術的に新しい教科書のあり方を模索されているところだと思います。
鈴木:
問題データベース「問答無用」のよいところは、教科書を書くよりもはるかに参加の敷居が低いことです。1問の問題を解いて解答をつくってデータベースに登録するというのはそれほど大変な作業ではないので、ネットのたくさんの人の協力が得られるのではないかと考えています。しかも、日本中でみんなが同じ作業をしているわけですから、無駄が省ける。
濱野:
この話は後半でさらに詳しく伺いたいと思います。
■クリエイティブ・コモンズ
生貝:
教科書の公開にはクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを利用されていますが、なぜクリエイティブ・コモンズを利用しようと思ったのでしょうか。また、現在のクリエイティブ・コモンズ・ライセンスについて問題点やご意見はありますか。
鈴木:
クリエイティブ・コモンズの理念がFTEXTの趣旨と合っていたというのがまずひとつです。ただそこでコンテンツを自由に公開するといったときに、GPL やFDLなど色々な選択肢がありますよね。ただ、その中でもクリエイティブ・コモンズはライセンスの選択画面も用意していて、最もインターフェイスなども洗練されていたということですね。
生貝:
そこで「知をオープンにする」といったとき、オープンという言葉には2種類の意味があると思います。ひとつは、ここでは教科書を誰でも無料で手に入れ利用することができるということ。つまり、コンテンツが最終生産物のレベルでオープンだということです。もうひとつはGPLのようにソースコードの自由な改変を許諾し、もともとの著作者のあずかり知らぬところで誰かの手によって作品が発展していくという意味で、つまり協働の連鎖ということ。いいかえれば、これはコンテンツが「ソースレベルで」オープンになるということですね。鈴木さんの言葉を使えば、「プロセスのオープン化」(ised@glocom 設計研第2回)ともいえる。
濱野:
そして実際私たちのcommonsphereでは、後者のオープンに踏み込んだ提案をしているんです。第1回の特集では、イラストレーター・漫画家の西島大介さんにキャラクターを製作していただいたんですが、単にGIFやJPGといった画像ファイルをCCライセンスつきで公開するのではなく、その作成のためのソースファイル(Illustrator AI形式 / EPS形式)から公開をしていただいているんです。
さて、そこでFTEXTで利用されているクリエイティブ・コモンズの「by-nc-nd」ライセンスというのは改変を禁止しているため、ソースレベルでの自由な利用はできません。FTEXTでは、「ソースレベルでのオープンさ=改変可能性」に対して、どのように考えているのでしょうか。
吉江:
そうですね。現在のライセンスだと、FTEXTの教科書を書き換えてしまうのはライセンス違反ということになります。しかし、私たち本来の考えは、開かれたかたちで教科書を作っていくということです。ですので、そうした改変の可能性を認めることはやぶさかではありません(注:コンテンツページにて一部LaTeXのソースコードを公開しています)。
鈴木:
それなのに、なぜ改変を認めないライセンスを採用しているかというと、その理由はいくつかあるんです。まず簡単にいうと、今後ライセンスの運用がどうなっていくかわからないからです。だからまずは条件を固めに設定して、改変なども禁止する(ND: No Derivative Works)、営利目的での利用を禁止する(NC: Noncommercial)という、「by-nc-nd」ライセンスを選んでいます。
まず「改変禁止」に設定している理由の一つは、まだFTEXTの教科書自体が発展中であるということがあげられますね。私としてはもちろん公開して、改変可能にしてしまうことは一向にかまわないのですが、たとえばTeXのソースコードひとつとってもこんなの見たがる、改変したがるひとがはたしているものか? と思っていたんです(笑)。現在はまだ、FTEXTの内側で協働の連鎖を起こして、どんどん教科書を発展させていく段階だと思っていますので。
生貝:
なるほど。一方でたとえばOCWのライセンスではMIT、日本共に改変禁止条項は適用していませんが、それによってMITの教材をすべて中国語に翻訳しようというプロジェクト(China Open Resources for Education)も立ち上がっているほどです。OCWの理念として発展途上国における高等教育の充実が挙げられていますが、FTEXTの教科書も改変可能になれば外国語に翻訳されて世界中で使われるという可能性もありますね。
吉江:
それはすばらしいですね。もちろん今後教科書がある程度形になってくれば、改変禁止の条項を取り外すことは大いに考えられます。
鈴木:
また、いまは非営利利用の目的に限っているんですが、この非営利目的での利用をどのように運用するかという問題があります。たとえば、塾の先生がFTEXTの教科書を使って授業をしたいと思ったとき、ここでは生徒との間で金銭の授受が発生してしまうために、非営利という形にならない可能性があるんです。私たちとしては、そのようなケースは許可したいという意図をもっているので、ここをなんとかしたい。つまり、大々的に印刷して配布するならば営利的な利用になってしまう部分もあるけれども、授業でちょっと使うくらいなら無償で許可したいという気持ちがあるんです。
ただ、かといって営利目的での利用をOKにしてしまうのも、ちょっと躊躇してしまう。NPOではあるんですが、運営資金は教科書の販売でまかなっている仕組みなので、完全にフリーというわけにもいかない。
生貝:
おっしゃるとおり、非営利という文言をいかに解釈するかというのは、クリエイティブ・コモンズの大きな問題なんですね。というのも、民法のどこを探しても非営利という言葉に対する厳密な定義はなく、ライセンスの利用者がそれぞれ非営利の範囲を解釈して運用しているというのが現状です。
この問題に対して、たとえば慶應義塾大学SFCのケース教材公開の取り組みでは、by-nc-nd ライセンスを利用して営利利用の権利を著作者が留保しつつも、別途営利利用希望向けの利用許諾を用意する形で対応しています。このようなライセンスのカスタマイズの取り組みが今後増えてくるのが、望ましい状況だろうと思います。
吉江:
それは面白いですね。ライセンスのカスタマイズはぜひ今後検討したいと思います。
■FTEXTの事業モデル
生貝:
FTEXTでは基本的に教科書のPDFを無料で公開していますよね。いま鈴木さんから、教科書を販売されているというお話が出ました。
NPO事業の継続のために、もしくは事業化のために、どのような収入源を得ることを考えているのでしょうか。
吉江:
はい、現在のところ、ウェブ上のPDFファイルは無料で公開しているんですが、それを書籍化して販売することから始めています。すでに教科書はISBNを取って販売しておりまして、アマゾンなどで購入することができます。
あとはやはり、FTEXTの事業に賛同していただける方々から、寄付などの協力をお願いしたいです。
生貝:
おお! アマゾンで購入できるんですね。それはぜひ宣伝させて頂きます!
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吉江:
出版部数が少ないのですぐに売切れてしまうと思いますが(笑)。
生貝:
またビジネスモデルということであれば、次のような事例が参考になるかもしれません。たとえば、Linux OSが無償で公開されているのに対して、パッケージャーであるRedHatなどの企業は、ユーザーサポートなどで対価を得てビジネスを成立させています。このような、FTEXTの教材を利用した周辺的なビジネスが生まれてくることも将来的には考えられますね。
■展望(1):PICSYによる相互学習支援
濱野:
さて、今日同席いただいた鈴木健さんは、PICSYという新しい電子貨幣を構築・提案されています。そこで鈴木さんのPICSYブログを拝見しますと、
「FTEXTでもPICSYを導入できないかという相談があったが、事業のステージを確認したところ、『まだ早い、1年先に考えればよい』ということが判明した。」
と書かれています(「VCVC」)。これはどういう意味だったのでしょうか? ちょうど一年以上たつわけですが、FTEXTにPICSYを導入しようというお話はその後どうなったのかなと思いまして。
吉江:
すごく昔の話ですね(笑)。
鈴木健
鈴木:
基本的にPICSYというのは、すべての貨幣のやりとりが「投資」になって、貢献度の高い人に購買力が伝播していくという新しいコンセプトの貨幣です。そしてその仕組みを使って、プロジェクト内で報酬を分配することに応用する、という実験をしているんです。つまり、人事評価の新しい提案ですね。
吉江:
そしてFTEXTでは、生徒間の相互学習を支援するのにPICSYを使えないだろうか、という話をしていたんです。教室というのは、教師が教えるだけではなくて、生徒どうしで教えあったりしますよね。そのとき、いったい誰が一番貢献したのかを可視化することで、相互学習のインセンティブを与えることができるんじゃないか、と。
実際に私の教えていた予備校でも、私がスパルタでがんがん課題を出したりしていると、生徒たちの間で自主的に休日などに勉強会を始めたりするんですね。
生貝&濱野:
おおー……。すごいですね。
吉江:
そこでこうした現象を、ネット上でうまくやる仕組みが作れないだろうか、と思っているんです。たとえばネットコミュニティで、何日に二次関数の勉強会をやるから集まれ!と告知するといったイメージですね。まだこれは仮説の段階ですが、自分で教育をデザインするようなことが起きるといいですね。
■展望(2):XMLとワンソース・マルチユース
濱野:
もうひとつPICSYブログ関連でお聞きしてよいでしょうか。鈴木さんは大変興味深いXMLについてのシリーズコラムを書かれているのですが、そこでFTEXTについて次のように触れています(「XMLの文体と新しい社会契約論」)。
「XMLがモデルとビューを分離することによって、我々にどのような福音をもたらすかは、FTEXTについての論考で紹介することにしよう。」
ただ、その論考の続きがブログに投稿されていないんです。ぜひこの場で続きをお聞かせください(笑)。
鈴木:
そう、まだなんです。よく読んでますね(笑)。
XMLによるモデルとビューの分離というのはですね、そもそもプログラミングの世界には、アプリケーションのロジックやデータ構造という部分(モデル)と、ユーザが実際にそのアプリケーションを用いるインターフェイスの部分(ビュー)の部分という線引きがあるんです。そして、それを軸にXMLの可能性を分類できる、というのがそのコラムのテーマなんですね。まだ途中なんだけど(笑)。
これがなぜFTEXTと関係するのかというと、XMLの文書というのは「ワンソース・マルチユース(one source, multi use)」だからなんですよ。TeXの場合、ひとつのTeXファイルからひとつの本が生成されるだけなので、「ワンソース・ワンユース」ですよね。これがXMLファイルで記述されるようになると、ひとつのソースファイルから、さまざまな表現形態が可能になるという話なんです。たとえば簡単な例でいうと、HTMLになったり、携帯で読めるようになる、ということですね。なかなか実現しないんだけど。
濱野:
具体的には、TeXのソースファイルをXML化することはできないか、ということですね。また、一部の携帯ではPDFファイルも読めるようになりましたが。
鈴木:
ただ、携帯だと寸法が違うから、どうしても読みづらいよね。画素数の問題もあるし。
吉江:
たとえばFTEXTの教科書では、絶対に覚えるべき暗記事項というのは、デザイン的に灰色の枠でくくっています。それをたとえば<暗記>…</暗記>と囲むことで、そこだけを抜きだして暗記集になったりもする、と。
鈴木:
そうです。パーソナライズすることで、教科書が読む人ごとにダイナミックに変化するようになる。製品マニュアルなんかは、かなりはじめから定型化されているのでやりやすいんですよ。ぼくが会社で働いていたときは、保険の約款をパーソナライズする案件もありました。教科書もそうだと思うので、そのへんもチャレンジしていければと思いますね。
濱野:
FTEXTの受験問題データベースは、自分が求める条件をセットすれば、そのとおりの問題集PDFファイルをつくることができますよね。
鈴木:
あれはRDB(Relational Database)という、標準的に使われているデータベースに問題集を格納していて、そこから引っ張ってきているんです。ただ難しいのは、ドキュメント的なデータをそのままデータベース的に管理するということなんですよ。
吉江:
入力のときにどうなるかが興味があるんですが、基本的にはタグでくくればいいんですよね。たとえば<例題>というように。それであれば、みんなで共著をするというときに、例をひたすら書くかたちで協力する、ということも明確に分担できる。
鈴木:
ただ、文章には線形的な流れがあるからね。ばらばらに書くのは難しい。
吉江:
そこなんですよね。なにか穴埋めのテンプレートや、章立てのようなものを用意して、そこを埋めていくだけで教科書ができていくというような……。結局いまのFTEXTでも、もちろんいろいろな方に協力してもらっていますが、最後に教科書を書くのは自分になってしまうんです。
また、いい例題を沢山もらっても、教科書に掲載するのは限りがありますよね。そこで例題のところで別に厚みを持たして、その場でいい例題を呼び出す仕組みはできないかな、とか。今後、こうした「共著のシステム」を研究していきたいと思います。
■「並列分散編集」:新しい「教える – 学ぶ」関係へ
生貝:
最後に、FTEXTの短期的・長期的な目的と、そして理念はどのようなものかお聞かせください。
吉江:
短期的にというと、これから1年くらいは、まずは教科書を作りのプロセスを公開して、少しでも多くの人に利用してもらい、フィードバックしていただきたいと思います。そしてその中で、一緒に協力していただける方を募っていきます。
また長期的には、といっても3年くらいですが、ネットを介在していろいろな人と一つの作品を作りつつ、知識を発展させていく「並列分散編集(Parallel Distributed Editing)」というものを広めていきたいと思っているんです。PDEは簡単に定義すると「テキストを『~する方法』の連鎖ととらえ、それらを小さな枠で分割・設計し、その小さな枠をいろいろな人によって著していく」文章作成技術のことで、詳しくは近日中にwebページに載せる予定です。
現在、先陣として数学の教科書がスタートしましたが、次は物理の教科書を展開しようということですでに書き始めている方々がいます。また数学・物理の次は音楽の教科書の作成を検討しているのですが、この音楽の教科書は普通の初等・中等教育で利用されている教科書と違い、ピアノやギター、ドラムといった実際の楽器を演奏できるようになることに重点をおいたものにする予定です。この教科書で音楽を学んだアーティスト達が、PDEを応用した作曲技法でヒットチャート1位を取るのが夢といったところでしょうか(笑)。
濱野:
その「並列分散編集(PDE)」というのは、つまり新しい「共著のシステム」ということですね。FTEXTが注目している「知のオープン化」というのは、単に情報を公開するというよりも、新しい「共著」などの作法をつくろうとしている、ということなんだと思います。
面白いのは、そこでFTEXTが「教科書」にフォーカスしているところです。たとえば料理のレシピを共有するということであれば、実際にそうしたネットコミュニティサイト(CookPad)がありますよね。こうしたコミュニティというかたちの知の共有と比べて、吉江さんが「教科書」というフォーマットにこだわっているのはなぜでしょうか。
吉江:
そうですね。レシピサイトにしてもWikipediaにしても、データベース的な知の共有のしかたというのは、これからも増えていくでしょうし、比較的実行しやすいと思うんです。しかし、それらはネットなど無い時代にすでに実行されてきた知の編集方法です。それらの活動がネットのおかげで加速されたとは思いますが、ネット時代の本質的な活動だとは思いません。
だから、FTEXTはデータベースからもう一歩進みたい。ネットにつながれた時代だからこそできる活動、思考方法というものを作っていいきたい。例えば「教科書」というものは、いままででしたらその筋に精通した一握りの人のが書くものでした。しかし、プロセスをオープン化することによって、いままで教科書を読むだけだった人が、教科書を書く側に参加することができるわけです。つまり、「教科書を書きつつ学ぶ」ということができるわけなんです。知的活動において、単なる消費者ではなく、常に生産者の意識をもってもらう。それがPDEで究極の目的としているものです。
濱野:
なるほど、PDEによるテキスト作りというのは、なにかを学習するというとき、「教わる側」の視点だけではなく、「教える側」の視点も共在させるということですね。そこで思い浮かんだ言葉は、今日同席されている鈴木さんの「<a href="http://ised.glocom.jp/keyword/%e3%81%aa%e3%82%81%e3%82%89%e3%81%8b"なめらか」というキーワードです。
鈴木さんはこの言葉を、ised@glocom(情報社会の倫理と設計についての学際的研究)で提案されています。6月の講演(設計研第4回)で井庭崇さんは、「教える – 学ぶ」という二項対立的な関係を崩していくような、新しい教育のあり方を提案されました。 そしてその二項対立を壊すことを、鈴木さんは「なめらか」というコンセプトで表現されていました。いま吉江さんがおっしゃったことは、まさにそのひとつであると思います。
吉江:
そうですね、何か始めようと思ったら、ちょっとFTEXTのぞいてみようかな、というふうになってくれるといいですね。だれでもはじめてのことはわからないわけですよ。だからまずは教科書にしたがって何か実行してみる。そうすると、その人なりのコツなりやり方なりが見えてくる。それを今度はテキストに残していくわけです。
だから教科書というよりは、ツールで人間の思考を加速させるようなものにしたいと考えています。たとえば中学生の自由研究の中から、大人顔負けの論文が仕上がるような、成熟度はなくともアイデアと情熱でがんがん切り込んでいけるような、そんなツールがあっても面白いなと思います。
生貝&濱野:
ありがとうございました。
注釈
マークアップ言語の一種。HTMLのように、文章の構造を指定する指令(タグ)を元に、印刷可能な組版ファイルを生成するもの。Microsoft社のMicrosoft Wordなどのような一般的なワードプロセッサ・アプリケーションよりも、複雑で高度なテキストの配置、そして美しいデザインが可能になる。たとえば数式を含む理系論文の作成などに多く用いられている。日本語では「テフ」と読まれることが多い。Wikipediaの項目「TeX」に詳しい。
Open Course Wareの略。MIT(Massachusetts Institute of Technologyが2001年に開始したプロジェクト。「オープンソースウェア(OpenSource Ware)」をもじっているように、大学の教材をインターネット上ですべて無償で公開するというものである。現在MITだけで1100コース以上の教材が公開されており、2005年からは日本でも大阪大学、京都大学、慶應義塾大学、東京工業大学、東京大学、早稲田大学の六大学がウェブサイト(日本 OCW 連絡会)を立ち上げ、公開を始めた。
General Public Licenseの略。自由なソフトウェアの発展を目指すリチャード・ストールマンおよび彼の設立したFSF(Free Software Foundation)によって作成された、ソフトウェアのライセンス。利用者はソフトウェアを自由に改変してよいかわりに改変したソフトウェアの再配布時には同様にGPLの適用を求められる。クリエイティブ・コモンズにも大きな影響を与えている。
GNU Free Documentation Licenseの略。FSFによって作成された、GPLと同等の条件を文書に適用するライセンス。
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの國領二郎研究室による、ケース教材(ビジネススクールのディスカッション授業に利用される)をクリエイティブ・コモンズ・ライセンスで配布するプロジェクトのこと。非営利利用には無償で利用許諾を行うが、営利利用には1部につき500円の料金を徴収している。
RedHatをはじめとするいくつかのオープンソース企業は、オープンソースソフトウェアであるリナックスの開発に自ら参加し、パッケージと呼ばれるリナックスの統合版をインターネットでは無償で公開しつつ、ユーザーサポートを有償で行うことで収益をあげている。
このように、コミュニティとの「アライアンス(連携)」によるビジネスモデルについては、佐々木・北山(2000)「Linuxはいかにしてビジネスになったか―コミュニティ・アライアンス戦略」が詳細に検討している。
PICSY
Propagational Investment Currency Systemの略。鈴木健氏が中心となり、価値が人から人へと伝播する「すべてが投資となる貨幣=伝播投資貨幣」の実現を目指す(詳細はPICSY ウェブサイトを参照のこと)。2002年度に独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の「未踏ソフトウェア創造事業」に採択され、鈴木健氏は同年度の天才プログラマー/スーパークリエータに認定された。
RDB (Relational Database)
データベースのもっとも標準的な形式。ウェブシステムなどで標準的に使われるMySQLやPostgresなどもこのRDBである。詳細はWikipediaの「リレーショナルデータベース」の項目を参照のこと。