「これは検察によるいじめだ」(ローレンス・レッシグ)

Aaron schvalrz in Boston Wiki Meetup by ragesoss / CC BY-SA

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのメタデータの設計にも寄与した天才プログラマー/エンジニアのアーロン・シュワルツの死を受けて、ローレンス・レッシグが発した言葉の日本語訳をお届けする。

 

(今はまだその時期ではないという人もいるだろうが、私はそうは思わない。今こそ私たちが抱えているさまざまな気持ちを声に出す必要がある。)

 

アーロンが2011年1月に逮捕されてから、この連鎖が始まった一連の出来事について、自分が知ろうとしていたよりもたくさんのことが分かった。アーロンは、友人であり法律の専門家として私に助言を求めてきた。彼は、何が状況を悪化させているのか、そしてその理由は何かという情報を私に教えてくれた。そして私は、彼を手助けしようと共に動いていた。ハーバード大の規則で法律家として彼を支えることができなくなってからも、友人として彼を手伝い続けた。もちろん大親友という間柄ではなかったが、私たちが友人であることに疑いはなかった。

 

ネット上を駆け巡っている何百もの悲しみや驚きの言葉の断片をみれば、誰もがこの少年がどんなに素晴らしい人物だったか分かるだろう。しかし、こうした心が痛む言葉を読んでいると、ひとつのこじつけがみられる。みんながそう思わないことを、私は願う。

 

つまり、彼の自殺を病気のせいにするなということだ。

 

アーロンほど人々から愛された人間が(実際に彼はNYの人たちに愛されていた)、自ら死を選ぶことは、ばかな事としか言いようがない。私は、彼の自殺に怒りを感じている。しかし、私たちがこの事件から何か学ぶとすれば、彼が自殺するに至った理由を忘れてはならないということだ。

 

まずもちろん、このような状況は彼が自らが起こしたことだ。私が社会的な責任を感じて公的な立場から事件について書いた文章で言及しているように、仮に政府が主張していることが事実だとすれば(ここで私が「仮に」と言っているのは、アーロンが私に言ったことを明らかにしていないからだ)、彼がしたことは悪いことだ。そして、法律的に違法ではないとしても、少なくとも道義上は間違った行為だ。アーロンが闘ってきた動機は私の動機でもある。この件について私と意見が合わない人でも私は最大限尊重はするが、私はそうしたやり方はしない。

 

しかしこのことが示しているのは、もし政府がこの件を立証できたら、何らかの刑が科せられる事件だったということだ。それでは、ふさわしい刑罰とは何だったのか。アーロンはテロリストだったのか、それとも盗んだもので利益を得ていた悪徳ハッカーだったのか。あるいは、これはまったく別の事件だったのだろうか。

 

JSTORは早くから彼の行為を「適切なもの」と考えていた。そこで、アーロンに対する自分たちの追及を辞退し、政府にその分を取り下げるように要求した。これによってJSTORの世間での評判はよくなった。その一方でMITは態度をはっきりさせず、世間の評判を下げてしまった。そして、「犯罪者」との戦いを続ける必要がある検事たちに口実を与えてしまったのだ。その「犯罪者」の一人が、みんなに愛されていたアーロンだった。

 

私たちには、よりすぐれた正義の感覚そして不名誉だと思う気持ちが必要だ。この話で正義に反する行動をしているのはアーロンだけではない。ここには、検事の不合理な行動がある。最初から政府は、不条理極まりないやり方でアーロンがした行動を犯罪として意味づけられないかと必死になって動いていた。そして、アーロンが「盗ん」だ「財産」は「何百万ドルもの」価値があるとされた。こうしたヒントを与えておいて、政府は次のように提示する。つまり、彼の目的はこの犯罪行為によって利益を得ることだったに違いないというのだ。しかし、学術的な記事を隠し持っていたところで、そこに金目のものがあるなどと言うばかな人などいない。つまりこの事件で金銭的な損害はなかった。それなのに、政府はまるで9/11事件のテロリストを現行犯で逮捕したかのような強引な行動を続けたのだ。

 

アーロンは「お金を稼ぐ」行為など何もしていない。彼は運よくRedditを立ち上げ成功したが、RSSの基準をつくり、クリエイティブ・コモンズの構造を考え、公共の録音素材を解放し、無料のライブラリーを作り、Change Congress/FixCongressFirst/Rootstrikes、そしてDemand Progressの活動を支援するという仕事を、アーロンはいつも(少なくとも彼の考えでは)公共の利益のために行っていた。彼は、賢くて面白い天才少年だった。だから私の心の底からこんな疑問がわいた。アーロンは何を考えていたのだろう。だが、今日その人物は生命を断ってしまった。それは、まともな社会であればいじめとでも呼ばれるような行動で、彼が人生の崖っぷちに追い込まれてしまったからだ。私だって間違える。しかし、正しいことをしてバランスもとる。もし、間違えたことをしてもバランスをとらないなら、米国政府の権力を後ろ盾にするには値しない。

 

思えば私たちは、ホワイトハウスで金融危機が立案され着実に大きくなっていくような世界で暮らしている。そして「正義」を持ち出した人々でさえ、間違った行為について何ひとつとして認める必要がないのがこの世界だ。まして、そうした人が「重要犯罪人」というレッテルを貼られることもない。

 

そんな世界で、政府が答える必要がある質問は、なぜアーロン・シュワルツに「重要犯罪人」とレッテルを貼るそれほどまでの必要性があるのかということだ。18ヶ月の交渉の間、彼は重要犯罪人となることを認めようとはしなかった。それで、4月の裁判では百万ドルの罰金を科せられるかもしれないという困難に直面した。こうした一連の裁判で、彼の財産はすっかりなくなってしまった。しかも、自分の弁護資金などの金銭的な手助けを、私たちにはっきりと求めてくることもできなかった。そのようなことをすれば、少なくとも地裁の裁判官を怒らせる危険があったからだ。彼の死は、間違った行動だし、みんなに誤解されていて、とても悲しいものだ。私はこの無防備な戦いの展望が何となく分かっている。だから、周囲が困るほど素晴らしい才能を持ったアーロンも、この戦いを終わらせることが合理的だと思ってしまったのだろう。

 

政府は彼に50年の禁固刑を要求した。私たちは、どうにかしてこうした「私は正しい。だからあなたを徹底的にやつけることも正しい」という、今時の一般的な倫理観を克服する必要がある。それには、不名誉だと思う気持ちを持つことから始めようではないか。

 

最後に一言、私は今、悲しみで涙に暮れている。

 

翻訳:玉川千絵子

原文:http://www.lessig.org/2013/01/prosecutor-as-bully-3/