CCサロン#2 “FabLife x FreeCulture” レポート

ファブラボ×フリーカルチャー@渋谷ロフトワーク

パーソナル・コンピューター、インターネット。技術が社会と出会ったとき、そこには新たな革命が生まれてきた。そして今、パーソナル・ファブリケーション―—工業の個人化という新たなものづくり革命が生まれつつある。日々の暮らしの中にものづくりを取り戻す市民工房「ファブラボ」を率いる田中浩也。そして、インターネットによって生まれたフリーカルチャーのただ中に身を置き、クリエイティブ・コモンズの運動をはじめ、新たな文化創造にコミットしてきたドミニク・チェン。ともに初の単著を上梓したばかりの二人は、互いの本をどう読み解いたのか。オープンをめぐる文化とものづくりの現在・未来を語り合った、刺激的な書評セッションの記録。

 

  • vol.1『Fab Life』をめぐって

 

「つくる」を取り戻す

ドミニク 『FabLife』には、今、ものづくりの最先端で起きている価値観の転換が書かれています。まずは「Do it yourself(DIY)」から「Do it with others(DIWO)」へ、つまり一人から人と人とが集まって作ることへの転換。そして「アナログからデジタルへ」ではなく、「デジタルからアナログへ、さらにアナクロからデジタルへ」という双方向的なものづくりのあり方への転換。最後に「モノをつくる場」のデザインから「場をつくるモノ」のデザインへのシフト。そういった人類の最先端の営みを扱う本だと僕は理解しました。

ファブラボとは「ものづくり」における国際的な新しい運動です。3Dプリンターやカッティング・マシンを備えたオープンな市民工房とその世界的ネットワークで、「使う人」が「作る人」となるこの運動は、現在までに世界20カ国以上50カ所以上で展開されています。日本では鎌倉に工房がありますが、そこでは、コンピューター上で設計したデジタルデータを、さまざまな加工法で、紙や布や金属といった素材の造形物として落とし込むという、新しいものづくりが行われています。

歴史的に見てファブラボがどういうものなのかを見ていくときにわかりやすいのが、コンピューターの進化です。コンピューターは、1940年代に大型計算機として生まれて、70~80年代に個人用パソコンとして普及していった歴史があるわけですが、ファブラボもこの歴史とパラレルに考えられるのではないかと思います。つまり、かつては大型工作機械だったものが90年代以降小型化して、3Dプリンターが個人の机の上に置けるくらいまでになった。実際にファブラボでは、一人ひとりが家具や椅子を作ることができるようになっているわけです。つまり、デジタルの世界で個人化(personalized)されてきたのと同じことが、ものづくり世界の最先端でも起きているということです。

では、ファブラボの社会的意義はどこにあるでしょうか。田中さんが本の中でも引用されていたファブラボの元祖(ニ―ル・ガ―シェンフェルド)の言葉に「大昔、職人のものづくりは、それ自体が教育であり、産業であり、芸術でもあった」というものがあります。僕はこれにグッときましたが、ものづくりが極度に分業化されてきた時代を経て、これからは個人ひとりが教育的活動も産業的活動も芸術的活動もやる、産業革命以前の時代へ戻っていくだろう、ということです。

そもそも僕が初めて田中さんと出会ったとき、彼はメディアアーティストでした。当時、田中さんは、鳥と人と機械がコミュニケーションし合うという作品を作っていたんですが、そのこととファブラボの活動はどこかつながっているように思うんです。ファブラボのものづくりは実際に役に立つからとか、生活が便利になるから、といった側面から注目されているところがあると思うのですが、ものづくりには本来、それを越えた「役に立つかわからないけど、作ってみたい」という作り手の衝動をも含んだものだと思います。以前、田中さんが酔っぱらって「植物と愛し合いたい」とおっしゃっていたことがあったのですが(笑)、彼はまさに定義不可能な人間の衝動を研究されているんだなと思いました。

 

ものづくりの「レシピ」を共有する

ドミニク ところで、オープンなものづくりというのは、たとえば音楽で言えばHIPHOPやDJの文化のようにウェブ以前からあるわけですが、インターネットはとりわけその可能性を大きく押し広げてきました。楽曲や制作プロセスがリアルタイムに共有されるようになったわけです。そしてファブラボは、オープンソース(ウェブ上の知識やデータ)をリアルの場に接続することで、オープンリソース、つまり素材や材料といった形あるもとして共有できるようにした。つまり、デジタルからアナログへ、という変革をもたらしたわけです。今でもアナログにものづくりしている人はたくさんいるわけで、手芸やパッチワークといったものはその代表的な文化なわけですが、個人個人がネットワーク化されていないので、それぞれの成功事例やノウハウはバラバラに存在している。しかし、それがファブラボにのると、socializedされてノウハウなどの共有が瞬時に行われる。今度はアナログからデジタルへの流れが起きるわけです。そこが革命的だと思っています。

この知識やノウハウの共有を考える上でも面白いのが、田中さんがMITで学生として過ごされたときに受けられたという授業、「Show and Tell」です。これは、ものを作ったときの成功ではなくて失敗を語る、という授業なんですね。なぜうまくいかなかったのか、普通ならば捨象されてしまう「失敗」(「期待された性能と実現された性能との間の受け入れえない差」)の経験やノウハウこそがオープンに継承されるべきなのだと、田中さんは言っています。では、そういう失敗の経験や知識が蓄積されたあとに、何があるのか。

ここで、田中さんの教え子、川本大功さんの言葉が示唆的です。「オープン・デザイン」の仕組みを設計するカギは2つあるといいます。まず、「個々のデザインがユーザーの生活に、よりしっくり適合するようになる可能性を増やすこと」。そして同時に「デザインプロダクト全体の生態系を豊かにすること」です。1つめは、例えば僕が3Dプリンター使うとして、それを日常生活の中にどう組みこんだらいいのか、あるいは3Dプリンターを組み込んだライフスタイルをどう広めていけるか、という“個”の視点ですね。2点目はデザイナーにとっての価値です。それぞれが企業や集団の中でノウハウを閉じ込めてデザインするのではなくて、情報をオープンにして、様々な作り手がプロジェクトに参画できるようにすることで生態系を豊かにする “全体”の視点です。つまり社会全体の進化を促進することで、個人の創造の確率をも高める、そこが最大の社会的価値なのかなと思います。

 

「集合知」から「派生知」へ

ドミニク 本の中でも紹介されていますが、ヘンリー・ペドロスキ―の『フォークの歯はなぜ4本になったのか』という名著があります。この本はフォークという「種」がどう進化してきたかという歴史をひたすら追っているものなのですが、ある時期にイチゴ用フォークとチーズ用フォークが生まれるように分岐したかと思えば、またある時期にはひとつの汎用的な形に収束するといった具合に、フォークという「種」が生物のように系統発生を繰り返していることがわかります。つまりインターネットが存在する前から、人類の文明はそうやって進化の理論のもとに切磋琢磨してきたわけです。田中さんのプロジェクトに「オープンリソース・ファーニチャー」という、モジュール化されたパーツを組み合わせながら、オープンソースで家具を作っていくというものがありますが、ここではパーツが組み合わされながら、家具はどんどん改変されて新しく進化していく形があるわけです。

インターネット上ではしばしば「集合知」という言葉が使われますが、田中さんはみんなの知識の集積から正しい解が導かれる、といったこの考え方より、もむしろこれからは「派生知」が重要になるのではないかと主張されています。つまり、ある知識を「そのままの形で再利用する」のではなく、それぞれが受け取って何らかの形でカスタマイズしていく知恵こそが求められているのではないかという考え方です。

そこで思い出したのが、サーキット・ベンディングという文化です。これは例えばファービー人形とか電卓とかなんでもいいんですが、配線を入れ直して新たに発光する電卓を作ったり、絶叫するファービー人形に作りかえてみたり、と電子回路をいじって別のものに作り変えるアメリカのアマチュア文化なんですね。そうやって目的もなくいじってみたり、壊してみたり、変数を変えてみる。それによって何が起きるかを観察するというのはすごく重要だと思うんです。つまり、知識やノウハウを自分のものにしていく過程こそが学習であると同時に創造にもつながる、学習=創造の次元が生まれるということです。

あるいはオープンソースの考え方をコンテンツに初めて接続したデヴィッド・ワイリーという教育学者が、コンテンツをオープンにすること自体が受け手にとっては教育になるのだと主張していたのに対し、受け手がコンテンツを教材としてどう使ったのか、どう評価したのかを見なければ意味がないよね、という議論が教育の最前線でされていますが、この話もまた同じことなのかもしれません。つまり、「集合知」から「派生知」へ、という流れにあるのだと思います。

 

爆発的に広めるために―—ライセンスのデザイン

ドミニク こうしたオープン化の流れのもと、日々多数のコンテンツが生まれているわけですけれども、ここからは標準化が大切になってくるのではないかと僕は思っています。というのもオープンソースについてもライセンスにせよ、あるいはそれを支える技術にせよ、その「標準」(defact)が出てきて初めてみんなが使えるくらいに爆発的に広まるといったことがあるわけです。標準が定まって、そこからまた多様性が生まれるというプロセスがある。そういう意味ではファブラボというのはまだ多様にすぎるという印象があるんですね。そこに1つの標準が出てきてはじめて革命になるのだろうなと感じています。

本の最後では、「ファブコモンズ」(FabCommons)が提唱されています。これはファブラボ×クリエイティブ・コモンズ・ライセンス、つまりファブラボを通して作られる「もの」にどういうライセンスをつければ、みんなに共有できるようになるかという議論です。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスには「改変の許可/不許可」という項目がありますが、ファブラボで作られるものは著作物ではないので、ライセンスの発想を改めてみる必要があると。そこで二次利用については「改変必須」にする、とあります。つまり、「改変してもいいよ!」じゃなくて「改変しなきゃだめ!」にするというアイディアです。実は過去にクリエイティブコモンズで引退したライセンスのひとつに改変必須ライセンスがありました。楽曲を共有する場合、改変したバージョンに限って公開していいよ、というライセンスで、使用例が少なくて引退したわけですが、これと同じような考え方は実はコミケでもみられたものでした。場所が違っても同じ問題意識が共有されていた。ここでまた、田中さんが紹介されていた、失敗こそ、オープンに継承されるべきだ、という言葉が響いてきます。継承されるためには失敗も共有されなければならない。やはりこれからは標準的な技術やプラットフォームが必要なのではないか、という思いがあります。

コンビニではなく、居酒屋を目指す

田中 ドミニクさんからクリエイティブコモンズの失敗のお話しがありましたけれども、僕はいま必要とされているのは「消えたものリスト」なのではないかなあと思うわけです。引退したというのは、もしかしたら日本に導入するのが早すぎたということなのかもしれない。技術の進化と社会状況が合うかどうかというのは難しいところもあるわけで、今僕らが提案しているものが、クリエイティブコモンズにおいても「改変必須ライセンス」が提案されていたんだなあと感慨を覚えます。失敗というのはいつをもって失敗というかという問題がありますが、うまくそれを生かせたらと思います。

そもそも、『FabLife』がなぜ本になったのかという経緯をお話ししますと、「How to make (almost)anything」というウェブ上にアップしていたMITの授業体験記を編集者の方が見つけてくださったのがきっかけでした。これを1章分としてブラッシュアップして、さらに2章分を書きおろすかたちで1冊になったわけですが、ウェブ上にアップした部分は今でもそのままの形で読むことができるので、部分的にはオープンになっているとも言えるわけです。もちろん全体をオープンにするかどうかという議論もあり得ますが、僕としては書籍をオープンにするというバリエーションをもっと増やしたいなと思っている。たとえば本の朗読会を開いて、お客さんからのフィードバックも含めたその結果をウェブにアップする。「書籍をオープンにする手法をもっと増やしたい」と思っているところです

多様性と標準化というと、パソコンのプログラミング言語のことを思います。1980年代、いろんなメーカーが独自のOSで独自のパソコンを出して、プログラミング言語は標準化されていなかったわけです。当時『マイコンBASICマガジン』という面白い雑誌があって、そこには数十種類のプログラミング言語のソースコードがバラバラにのっていました。僕は自分の持っているパソコンのソースコードを書き写して入力して実行しながらプログラミングを学んでいました。雑誌の残り90パーセントは自分のパソコンでは動作しないソースコードなわけですが、そこには「移植」という文化があって、自分のパソコンと違う言語であっても、ちょっといじってみることで自分のパソコンでも動作できるものに書き直すことができる。これは言ってみれば、一種の「翻訳」で、それはすごくクリエイティブな作業だったんですね。それは英語から日本語への翻訳についても同じことで、それはただ言葉を置き換えるのではなくて、英語でも日本語でもない領域を新たに作るような作業なわけです。だから、オープンと一口に言っても、そのクリエイティビティは残しておいた方がいいのではないかと思う。確かに多様なものが多様に残っているということは、翻訳が必要になるから面倒な側面もあるけれども、それはとても豊かな気がするんですね。

ところで標準化というのは、まさにファブラボも今直面している問題なわけです。先ほどドミニクさんが紹介してくれたように、失敗の経験を継承するというのがポリシーですが、多様性を確保する上で、ファブラボはコンビニのようにならないようにしたいと思っています。目指すのは居酒屋です。一つひとつのファブラボがそれぞれのキャラクターに支えられた独自の存在にしたい。たとえば地方で地元の居酒屋にいったとします。そこは常連さんたちのコミュニティーの場として深まっているかもしれないけれど、よそ者が入っていくのには敷居が高かったりする。でも僕は、コンビニのように誰もが自由に参加できて、そのトレードオフとして無色透明になってしまうオープン性は真のオープンではないと思っているんですね。オープンの中にも、居酒屋のようにどこか「濃さ」を残すやり方を発明できたらいいなと思っています。

 

 

  • vol2『フリーカルチャーを作るためのガイドブック』をめぐって

 

ウェブ時代の本の語り方

田中 僕はドミニクさんの本を読んで、これはある意味で「歴史書」だなと思いました。オープンソースには深い歴史があり、闘いがある。それを噛みしめるように書かれている。

そもそもウェブの時代になぜ本を書かなければならないのか、という問いがあると思います。僕は以前からドミニクさんの文章を読んできましたが、以前のドミニクさんの文章はもっとセクシーだったんですね。良くも悪くもレトリックが多くて、僕はそれが好きだった。必ずしも議論は直線的に進まないし、行きつ戻りつしたりする。でもこの本はそうでなくて、枝葉を刈り取ってミニマムにできている。磨き上げられた言葉の選択という気がします。ウェブの情報は雑多でノイズが多い環境なわけで、ドミニクさんはそういった状況から離れて、ミニマムにパッケージする作業が必要だったのではないかなと思います。

一方で僕が本を書かなければと思ったのは、情報ではダメで物語を書く必要があると思ったからなんです。まるで2時間ドラマを観るみたいに読者に「ファブライフ」を“体験”してもらいたい、一人称で書いたのにもそうした思いがありました。

本全体の造りという意味では、本にはタイトルがありますね。タイトルがあってサブタイトルがあって、帯文がついている。それらが本の中身を説明してくれる。ドミニクさんの本の帯文には「継承とリスペクトによる創造の共有」とあります。確かにこの本の最後では「リスペクト」について触れられているのですが、フリーカルチャーをひとつのヴィークル(乗り物)に例えると、リスペクトというのは何なのだろうかと思いました。つまり、乗り物が前に進むためには車輪とエンジンが必要です。リスペクトというのはそれで言うと、車輪なのだろうか。ここで僕のことに立ち返ると、『FabLife』では「ファブ」という車は左の車輪が「作る」もので、右の車輪が「つなぐ」もの、それを個々人の創造性をエンジンに進んでいくのだ、という語りをした気がします。あるいは左が「デジタルファブリケーション」(物質)で右が「オープンデザイン」(設計図)だと言ってもいい。

本の造りをそう読みかえると、僕はフリーカルチャーというヴィークルにとってリスペクトはエンジンではないかと思うんですね。リスペクトをエンジンに、継承と○○を車輪として作動する文化」=「フリーカルチャー」と捉えなおしてみる。では○○には何が入るんだろうか、と。これは「学習」なのかもしれない。でも、左のタイヤと右のタイヤを並べられるとしたら、僕はある意味でそこに対比的なものを並べたい。「継承」が過去を現在にフィックスするものだから、もう一方には現代を将来に投機するものが入っていてもいい。そして、それはもしかしたら「改変」かもしれないなと思ったりもします。

 

文化を上書きする

ところで、そもそも写真や映像や音楽といったオープンコンテンツにとって「ソース」って何だろう、という問いがあるわけですが、それに対するドミニクさんの考察は面白かったです。もともとソフトウェアはインターネットの発達とともに出てきた文化なので過去のやり方との接続を考える必要などないわけですが、コンテンツにはもっと長い歴史があるわけですから、デジタルのソースデータをその上にうまく載せていくという接続の必要性が生じるわけです。かつてドミニクさんは「over ride strategy」と言っていましたが、今まで生み出された文化に新しいやり方を上書きしていく、という視点はフリーカルチャーを考える上で面白いと思います。

ただ、「ソースって何なのだろう、それはジャンル固有だと思う」というのがドミニクさんの考えだと思うけれども、そこには少し疑問があります。たとえば楽曲のソースは譜面で、料理のソースはレシピ、ファッションのソースは型紙だと言えるけれども、本当にそれでいいんだろうか。ソースが何かをめぐっては、音楽や映画など今までその文化を担ってきた人たちの議論が必要なのではないかなと思います。レッシグが「RO(read only)文化」から「RW(read and write)文化」へと言ったように、ファンが作家の作品を読んで消費するだけでなくて、読んで自分も作る側にまわることでリスペクトを表明するように変わってきた。これはマンガやアニメの二次創作を思い浮かべてもらえればわかると思います。あるいはファッションの分野では、ユニクロの服を買ってユザワやの道具で独自にカスタマイズする「ユザラ―」と呼ばれる人たちが登場しているんだそうです。自分の手でユニクロの服を分解して再編集して新しい服を作る。つまりユニクロの製品が次の服のための素材になっているんだと、これは面白いなあと思いました。

「ソースって何だろう?」という問いに戻りますが、これを考えることは思考を深めるための切り口として面白いと思うんです。つまり学習というものを考えるときに、結果としてのプロダクトや知識だけを見るのではなくて、それが生まれるプロセスをも観察しないと意味がないと思うんですね。料理のレシピを共有するだけでなくて、それを各々が書き換えてカスタマイズしていくところも見ていかないといけない。

 

新しい文化を創るということ――「学習」と「創造」

もちろん、ソースのフォーマットを考えようという動きもあります。MITを例にとれば、生徒たちは、自分たちの作品を世界に公開するために一人ひとりがウェブサイトを持たないといけないことになっている。つまり作品(プロダクト)を制作しながら、そのソース(設計図)をオープンにするための記述をも同時に考えなければならない。両方の作業を同時にするのは難しいのではないかと思われるかもしれませんが、料理を作ることとレシピを書くのが異なるように、これらは別の作業です。それに、レシピを読み解くためのリテラシーは、ある程度ユーザー側に求めていいだろうといった考えもあるわけです。たとえば、折り紙で鶴を折るのにも、その過程には山線と谷線の組み合わせがあって、誰にでもわかるように丁寧に記述すれば、折る順番も示してあげなければならない。でも、そこまでの記述を課すと作る側の負担が大きくなりすぎてしまう。だから順番までは書かなくてもいい、設計図だけ示してあとはユーザーに読み解きを要求すればいいんだ、というところでバランスをとる。そうでないと、オープンにするというのは大変なわけです。

僕は研究者になる前に実はテナーサックスをやっていて、ジャズミュージシャンを目指していたんですが、オープンカルチャーを考える上では、結果的に(傍点)文化となったジャズを考えることがヒントになるかもしれません。ジャズには「枯葉」や「マイルストーン」といったスタンダード曲があって、それぞれが魅力的なコード進行によって成り立っていますが、プレイヤーたちは最初のメロディパートは譜面どおりに演奏をしていくけれども、2週目以降はコード進行にのせて、各パートが自由に好きな音を出していくわけです。しかし“自由”とはいっても、ジャズの暗黙のルールとして、アドリブにおいて以前と同じ演奏を繰り返してはいけないということがあります。といってもゼロからのアドリブは難しいから、前の演奏を手がかりにちょっとずつ変えていくわけです。そして、そうしたアプローチが結果的にコード進行の解釈をも広げていく。

つまりジャズは、創造の「目的」でもあり「手段」でもあるわけです。模倣や改変を繰り返した音楽のかたちが結果としてジャズという「文化」になった。これは華道や茶道にも言えることだと思います。文化をオープンにするというときには、そういった往還の中で文化を育てていくという視点が欠かせないと思います。ジャズは結果的に文化になったけれども、ではこれから自分たちが作っていく新しい文化はどうなるのか、今ある文化がどのように形づくられたかを観察してみることはとても大切だと思います。

 

感情も含めた場のデザインを

ドミニク フォーマットを作ることと、モノを作ることが別の作業だというのはよくわかります。しかし守・破・離の考え方ではないけれど、フォーマットを作る作業を極めてやっていくと、いつかそれがどこかで破れて突き抜けて新しい型を生むのではないかという気もするわけです。フォーマットを作ることの大切さは今、いろんなところで高まっていると思うんですね。それぞれのジャンルでのモノ作りは別個に多様だけれども、どこか互換性のあるところでやらなければ、「君のいいね!」「あの人のもいいね!」ばかりで、ダメがない貧弱な世界になってしまう気がするんです。
それから「学習」と「創造」についてですけれども、僕は「学習」=「創造」だと思うんです。僕自身はアフォーダンス理論に影響を受けていて、ジェームズ・ギブソンという人によれば、人間は外からの情報を処理して反応するという受動的な知覚のリアリティではなくて、光が外から入ってきたら目の細胞のレベルで半ば能動的に反応しているんだ、というリアリティを語るわけです。つまり、人間はたえず周りの環境から終わることのない学習を行っている。たとえば今こうやって話していても、僕には何か「もの」を作っているんだという意識があります。そこにはフォーマットもない。ただ聞いてくださる皆さんがいて、何か会場の空気を肌で感じながら、一人ではいけない場所に行っているという意識がある。それこそDo it with othersです。

ここからソーシャルクリエーテョンについても議論できるなと思います。先ほど田中さんは、フリーカルチャーにとってのエンジンがリスペクトだとおっしゃったけれども、僕はリスペクトが原動力だとは思っていないわけです。学習しながらでなければ何も生まれないし、リスペクトがあって学習するというよりも、学習した結果として継承する他ないものがリスペクトだと思うわけです。事後的に、「ああこの人からこんなに多くのものをもらった」と気づくものなのではないかと。フリーカルチャーを考えるときに、そういう感情を含めた場を作ることこそを考えていかなければいけないのではないかと思っています。